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徒然日記

行政書士の仕事に関わることは勿論、世の移ろいについての雑感を書き連ねて参ります。

不定期な更新となろうかと存じますが、どうぞご容赦ください。

時代性の問題

私が業務の柱としている、お墓問題にしても、相続をめぐる問題にしても、社会の「時代性」が色濃く反映されております。例えば、現代のお墓の有り様は、昭和の時代には予測だにしなかった様相を呈しています。「先祖代々の墓」のお参りの対象は一体誰のイメージか?と墓参りの方に問えば、家系代々の祖先よりも、親や祖父母といった近親者が一番にあげられるでしょう。即ち、見知らぬご先祖よりも生前の記憶がしっかり残る故人を祀る意識が、今はより強くなっていると思われます。

この遺族の意識変化は墓参は勿論、お寺の法事にも影響しています。自分の知っている故人を祀る事が原則とすれば「知らないご先祖」の法事を親族で行う意識も薄れます。超高齢社会の進行で長寿を全うされる方が増加すると、その方を知る子もすぐに亡くなってしまい、昔に比べて、その方を供養する法事を行う期間も短縮されてしまいます。これはまた、お寺の経済事情にも大きく影響を与えること必至です。

私の大学時代、民族学や文化人類学の授業では「葬制」がひとつの大きなテーマでした。洋の東西を比較したり、過去の歴史を遡ったりして、どのように葬祭儀礼が行われるかを見ると、そこには、その社会の文化の独自性が映し出されていました。現在の日本のお墓事情も「葬制」として、現代日本の文化の現れと捉えるのも興味深いかもしれません。そこに見えるのは、核家族化による家族共同体の崩壊でしょうか?

終活「ブーム」に思う事

今や「終活」という言葉はすっかり定着しておりますが、そもそもは平成21年に週刊朝日の副編集長が就活(就職活動)をもじって作った造語です。人生の終末を迎えるに当たり、介護や延命治療、葬儀、相続などについての希望をノートにまとめる等、様々な準備をすることとされ、正に当事務所の業務もそのお手伝いとなりましょう。

終活のセミナーは大人気ですし、終活カウンセラー、終活アドバイザ-という民間資格も登場し、正に終活は大ブームとなっております。週刊朝日の副編集長もメジャーな社会現象になろうとは、想像だにしなかったのではないでしょうか?

しかしその盛り上がりの背景には、やはり日本の社会状況、特に家族関係の変化があります。昭和の昔、大家族が一つ屋根の下に暮らしていた頃、高齢者の介護は家族皆が担うものであり孫たちも祖父祖母の世話を通じて高齢者を尊敬しいたわる心を育んでいました。しかし核家族化の進行に伴い大家族は姿を消し、子供達は成人した後、次々に家を出て独立て行き、挙句の果てに多くの高齢者が独居するという現在の有様に至ったのです。

以前、高等裁判所の元判事が高齢者問題について講演なさった時、「核家族政策は大失敗であった」と断言なさっていました。でも今更社会を作り直すことは不可能でしょう。せめて後顧の憂いなく安心して人生の晩秋を暮らせるよう、私がお手伝いできれば幸甚に存じます。

ネアンデルタール人の「終活」

超高齢社会の日本にあって、今大きな社会問題となっている、介護や相続、そして埋葬。その起源はどこまでさかのぼれるのでしょうか?以前私は日本人類学会に入会してヒトの祖先について勉強したことがあります。その知識を基に「終活」のルーツを考えて見ます。

ネアンデルタール人というと我々の祖先に関わる野蛮人というイメージが浮かんできます。しかし彼らは現生人類の直接の祖先ではなく、共通の祖先から枝分かれした遠い親戚みたいな存在です(最近の研究では我々の祖先がネアンデルタール人に取って代わった際に雑婚して、現代人の遺伝子にもネアンデルタール人由来のDNAが組み込まれているそうです)。我々より脳は大きいのですが、言語能力では劣り、文化的にも我々の方が洗練されている・・・とされています。でもも野蛮だったのでしょうか?

ネアンデルタール人の埋葬の跡を示す遺跡はいくつかあり、その化石から面白いことが分かっています。イラクのシャニダール遺跡からは、5~6万年前のネアンデルタール人4体の埋葬骨が出土し、その内一体(40才前後=現代人だと80才相当)は8種類の花を散りばめて埋葬されていました。またフランスのラ・シャペル・オ・サン遺跡出土の5万年前のネアンデルタール人の老人(やはり40才前後=現代人80才相当)の埋葬骨は、歯が全て無く、腰と背中や背骨に障害や骨折があり、とても一人では自活できずに、食事を含む介護を仲間から受けていたとみなされています。

即ち、ネアンデルタール人も高齢者の介護をし、亡くなった際には花を撒いて手厚く葬っていたのであり、彼らの心は決して野蛮ではなかったと言えましょう。家族や仲間を思う心は、知能によるものではなく、生物としてのヒトに備わった自然の本能によるものかもしれません。介護や相続をめぐる現代人の諍いを見るにつけ、心の豊かさでは現代人は、むしろネアンデルタール人にも劣っているのでは?と思えてなりません。

紛争と「正義」

いかなる紛争においても、当事者の主張には必ず理由が伴います。ただその理由が相手にとっては納得がいかず紛争となるのです。その納得がいかぬ原因は、その理由を論理的に組み立てる根拠となる価値観=モノサシが、人それぞれ異なっているからに他なりません。

物事の理非曲直を測るモノサシが同じなら、説得はそんなに難しくはないでしょう。しかし、片やメートル法のモノサシ、片や鯨尺のモノサシで測るのでは、相互理解は難しい。ただお互いがモノサシが違うのだと気づいて、互いのモノサシを批難するのではなく、試しに交換して使って見れば、あぁ、こういう考えだったのか、と初めて納得できるのではないでしょうか。

モノサシを「正義」と置き換えても良いでしょう。即ち、モノサシが色々あるように、正義も一つではないのです。これは元九州大学教授のレビン小林久子先生のADR(裁判外紛争解決手続)研修で習ったことです。

例えば道路工事の作業員に食事を配るケースを考えて見ましょう。「正しい分け方」とはなんでしょう。①全員に同量を等しく分ける。②仕事をこなした量に応じ分配し、成果が多い順に多く与える。③体の弱っている者を優先して多く与える。④労働時間に応じて、一番長時間働いた者から多く与える・・・まだまだ考えられそうですが、このどれもが間違ってはいない。それぞれのモノサシが違うから、自ずと分け方も違ってきます。正義は一つではないのです。

意見対立が生じた時、感情的になる前に、なんで相手はこんな主張をするのか、一体そのモノサシはどんなだと考えて見る。そうすると成程、一理あるなぁと納得できるかもしれません。夫婦や家族でもモノサシは違います。またそれがヒトの個性なのですから。

 

「理由」無き主張はない

凡そ人が意見を主張する場合、相手を納得せるためには必ず理由が必要です。ただ前にのべたように、その理由を構成するモノサシ=価値観が大きく異なっていると、中々相手に理解してもらうのは難しいです。

和解に詳しい元裁判官から伺ったお話ですが、人が自分の正当性を主張する場合、往々にしてその理由として提示するのは、広く万人に受け入れられる、相手が反論できない理由である。ただ、それが本人にとって本当の理由とは限らず、対立の真の原因は全く別の所にあり、それを言うと反論されて負けてしまうから、あえて全く別の理由を掲げることがあるとの事。確かに主張の勝ち負けを考えたら、根拠を偽装せざるを得ないのでしょう。でもそれではいくら話し合っても、真の紛争解決には至らないでしょう。何せ自分さえ納得できない理由だから。

もし第三者が仲介に入って、当人達の本当の気持ちを包み隠さず聞き出す事が出来たら、よそ行きの仮面を付けている事を看破し、本音を引き出す事が出来たら、納得の行く解決方法が見つけられるでしょう。それを目指すのがADRのメディエーションです。

 

敬老の心と少年非行

ボランティアで非行少年の保護活動に参加しております。保護司とは違うのですが、少年鑑別所を訪れたりもしています。その活動を通じて感じられるのは、多くの少年が家庭環境に問題をかかえている事です。それは今も昔も変わりはないとは言え、やはり「時代性」が反映され、昨今の家族共同体の崩壊の影響している気がしてなりません。

ある少年の更生活動に付き添ったことがあるのですが、彼は高齢者を狙ったひったくりを繰り返しておりました。歩いていたり自転車に乗っているご老人からバッグをひったくっていたのですが、彼に何故ご老人を狙うのか?と聞くと、弱者でひったくりやすいからと、実にあっけらかんと答える。そこで、自分のお爺さんお婆さんについて聞くと、ご存命であるけれど一緒に住んでいないので、親しい感情は感じていない印象でした。

そんな彼の更生活動として、老人ホームでの奉仕活動をすることになり、半日私も付き添って活動を共にしました。大きな風呂場で汗だくになりながら車イスを二人で10台近く洗い、その後、綺麗になったその車イスにご老人を乗せて、近くのスーパーにお買い物に行ったり、坂道のある公園で車イスを押し上げ押し上げ、お散歩しました。すると少年に変化が現れ始め、「お年寄りってこんなに重たいんだ」「体が不自由だとこんなに大変なんだ」と言いだして、「俺のじいちゃん、ばあちゃんも大変なのかなぁ」と肉親の情も沸いて来たようでした。

それまで高齢者に対するひったくりの反省をいくら促しても、うわべを取り繕うに過ぎなかった彼が、奉仕活動の最後には、自ら「おれ、悪い事しちゃたなぁ」とつぶやく様になりました。やはりご老人の「重さ」を、その生活の苦労を、肌で感じないと理解ができないのです。敬老の心は、そこから育まれるのではないでしょうか。

オレオレ詐欺の「受け子」をやった少年に付き添うことも多いのですが、その少年たちからも敬老の心は微塵も感じられません。親の躾けがなってない!と言えばそれまでですが、私には核家族化という社会情勢も大きく寄与しているように感じられます。原始人のネアンデルタール人にも劣る、情の薄い家族・・現代人の我々はそんな評価をされてしまうかもしれません。

 

相続の「当事者」も高齢化

公証人役場の遺言の証人や、遺産分割の業務をやっている時に私が感じるのは、相続の当事者の高齢化です。これも日本が超高齢社会となったことの現れで、当然と言えば当然の事です。

被相続人(遺産を遺す故人)が高齢でお亡くなりになれば、相続人(遺産を承継する配偶者や子供等)もそれなりに高齢者となるのは必定。相続人も既に亡くなっていてその子が相続の対象となる「代襲相続」も以前より多くなっているでしょう。また、被相続人がお亡くなりになった後、遺産分割が終了しない内に相続人もお亡くなりになり、所謂「再転相続」が生じてしまい、相続人の子や配偶者が被相続人と相続人のWの相続の当事者となる事も、以前よりも増加している事でしょう。更に、面倒な揉め事を避けて遺産分割をちゃんと終了しないまま放置すると、被相続人の死後10年以上も経ってから、遺産分割を裁判所に申立てされる事もあるのですが、当然その当事者は、通常の相続の当事者よりずーっと高齢となってしまうでしょう。

遺言が遺されておらず、一から遺産分割協議を行う事は中々大変です。ましてやその当事者が高齢であったり、既に亡くなっていて、その子供(被相続人から見れば孫)が祖父母や叔父・叔母と協議しなければならないとなったら、益々難航するであろうことは想像に難くないです。また、遺言を遺すにしても高齢となってから作成を試みた場合、ご自分で要式に従って書かねばならない自筆証書遺言は中々難しく、さりとて公証人役場で作る公正証書遺言にしても、遺言者に遺言能力が本当にあったかで紛争となり、裁判所に遺言無効の訴えがされることもあります(東京地裁の裁判官曰く、決して少なくはないそうです)。

このように超高齢化社会となったことは終活や相続にも悪影響を与えます。その対策としてはエンディングノートを書くにとどまらず、一歩進めて、お元気なうちに遺言をちゃんと作成しておく、これに尽きると存じます。

 

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